こんにちは。一気に秋めいてきましたね。
今夏をふりかえってみると、アメリカで起きた悲しい事件をきっかけに、Black Lives Matterキャンペーンが世界中で広がりを見せました。アメリカの黒人差別問題は、いわゆる「偏見」の域を超える、アメリカの社会構造の不平等性・不公平性を巻き込んだ非常に根深い問題です。
Black Lives Matterと比べると大分スケールが小さいですが、今日はダイバーシティに関して、私自身が海外で働いてみて感じたことをご紹介したいと思います。
ダイバーシティの本質とは?
溯ること5年ほど前。
私がロンドンに赴任してきて初めて所属した部署は、イギリス人が9割近くを占めており、日本人は言うまでもなく、アジア人でさえ自分1人という、多様性豊かなロンドンでは珍しい、超偏りのある国籍構成になっていました。
特にそれで不当な扱いを受けたとかいうことはなく、皆優しい同僚たちだったのですが、どこか居心地が悪いようなモヤモヤした気持ちになることがたまにありました。
何故か?
彼らはほぼ全員、「マイノリティになったことがない人たち」ばかりだったんですね。なので例えばイギリス英語に慣れていないと分からないような言い回しや、イギリス人でないと分からないようなジョークや地名等を誰かが口にしても、「これはイギリス人でないと分からないものだから、彼女は分からないだろう」と気を利かして、話題を変えたり、解説してくれる人があまりいなかったんです。
異文化体験という意味では貴重な機会だったのかも?とは思いますが、そういう環境で毎日働くとなると、無意識のうちに精神的な疲れが溜まるものです。
具体的なエピソードを一つ挙げると、イギリス伝統のパブ・クイズ(パブに集まって行われるクイズ大会)が部署で行われたときのこと。出てくるクイズの内容が、次から次へと、イギリスのテレビ番組や音楽事情、この国の教育指導要項に添った基礎知識などばかりだったんです。もちろん出題者に悪気は全くありません。ただ、私はクイズ大会を楽しむことはできませんでした。「そんなもん分かるかっ!!」と冗談半分に言ってみる勇気もなかった当時の私は、盛り上がっている場の雰囲気を壊したくなかったこともあり、何となく楽しんでいるふりをして、ふりをしていると気づかれないために非常に気を遣うという、謎の苦行をする羽目に。
これは、日本国内においても、転校したり、転職したり、新しい土地に引越したりして自分だけが「外から来た人間」となった経験をしたことがある人は共感できる体験なのではないでしょうか。
この経験を通じて、私は、ダイバーシティを大切にするということは、結局シンプルに「思いやり」なんじゃないか、と思うようになりました。
言い換えると、「誰もが自分らしく存在することができるように思いやりの心を持つこと」でしょうか。
先のクイズ大会の例で言えば、あのクイズ大会の実行委員会の誰かが、「このクイズの内容は、参加者全員が楽しむことができる内容だろうか?」と想像していたら、結果は違っていたかも知れません。
国籍、性別、年齢、ライフステージ、文化、宗教といった様々な属性を、お互いの個性として認め合い、尊重し合うことができる環境を作っていくこと。
その人が自分らしくいることで、居心地が悪いような状況に陥っていないかどうか、ちょっと想像してみる。小さなことですが、先の例で言えば、なるべくどこの国出身でも分かるような言い回しで会話する。世代的にマイノリティがいれば、その人の世代でも分かる話をする。このちょっとした違いが、人に居場所があると感じさせたり、無いと感じさせたりしてしまうのではないでしょうか。
最近このテーマは、「ダイバーシティ&インクルージョン」といった形のセットで語られることの方が多くなってきました。インクルージョンとは、一体性とか、「仲間として受け入れる」的なことを指します。まさに、自分らしさと一体感の共存が、目指すべきところなのではないかな、と思います。
さらに、多様性を確保するために想像力や思いやりすら不要となる方法があります。
それは、多様性の構造化です。
今の私のチームの構成は、欧州人3割、イギリス人2割、アメリカ人2割、アジア人2割、その他1割といった具合のバランスになっています。欧州の内訳も、フランス、ドイツ、スペインと見事に分かれているので、ありがたいことにもう自分がマイノリティと感じることはなくなりました。
そしてこのチームでもクイズ大会をよくするのですが、自然と「世界で一番広い湖はどこか?」「今家にある台所用品の中で最も珍しいものを30秒以内で持ってこい」(Zoomなのでこう言う出題ができます)というような、誰もが参加できる内容のクイズが出されるのです。何故なら、少なくとも国籍面では、構造的に多様性が確保されているからです。そもそも圧倒的マジョリティがいないので、その他の人への配慮に欠けるアイディアが上がってこないのです。
構造的に多様性が確保されていれば、想像力を使う必要すらない。だから、女性でも、人種でも、ある程度強制的に、組織を構造的に多様化することには効果ががあると私は思っています。
*****
私のロンドンの職場ではここのところ、ダイバーシティに関連する啓蒙活動がかつてないほど盛んになされています。以前から弊社ではChief Diversity &Inclusion Officerなる役職、すなわちCEOやCFOと同レベルの権限を持った担当役員を置くなど、様々な取り組みがなされてはいましたが、ここにきてさらに1段階ギアが強まった印象です。
実際、この数ヶ月間で数えただけでもダイバーシティ&インクルージョンについて行われた社内研修(もちろんリモートですがやミーティングは7回以上(!)にのぼります。しかも毎回部長から”Please make every effort to attend this training“(この研修に出席するために全力を尽くしてください=特別な理由がない限り欠席は許さん!)というゴリ押しメール付き。
それほどグローバル企業の経営陣はこのテーマに敏感であり、重要視しているということです。
何故か。理由は大きく分けて3つあります。
①まず単純に、多様性が確保された組織の方が、強いから。
戦略コンサルティング会社マッキンゼーが今年の5月に発表した研究レポート”Diversity wins”によれば、女性役員の多い企業は、そうでない企業に比べて、利益率が平均以上である確率が25%高いことがわかっています。さらに同レポートでは、人種・文化面でより多様性が確保されている企業は、そうでない企業に比べて36%利益率が高かったことが示されています。このように多様性が組織に与えるプラスの効果を立証している研究はすでに数えきれないほど存在します。
②次に何より、人種、国籍、性別などに対する偏見が蔓延っているような組織は、本当に優秀な人材を惹きつけ、引き留め続けることはできないからです。
人材採用や人事評価をする側の人間に無駄な偏見があっては、本当に優秀な人材を見つけ出し、正しく評価することができません。また、仕事との価値観の一致を重要視するミレニアム世代は、差別的なカルチャーがあるような企業に魅力を感じることはないでしょう。
③そして最後に、優秀な人材に能力を発揮してもらうには、彼・彼女らが自分の強みを活かすことができる環境、つまり「自分らしくいることができる環境」を整えてあげることが重要であるからです。
つまり、ダイバーシティーとは単に公平性等の倫理的な問題であるのではなく、企業の生産性、ひいては競争力に直結する問題なのです。
もはや「知らなかった」「自分は差別を受けたことがないから良く分からない」なんていう言い訳は、ただ単に「自分は世界で起きている重大な問題について無関心であり、無教養です」と言っているようなもの。無関係な立場を装うことは、許されないのです。
誇張ではなく、欧米でインテリ層と会話していて「ダイバーシティー?何それ美味しいの?」なんてことをいっていたら、すぐさま人格と教養を疑われるでしょう。
****
どんな社会でも、組織でも、Minority(少数派)はどうしてもできてしまう。差別や偏見がこの世からなくなることもないと思います。
でも、自分自身の行動を変えることはできます。自分が所属している組織や地域、人の輪の中にマイノリティの人がいれば、その人が自分らしくいることができているか考えてみる。もしそうでない可能性があるのであれば、何を変えれば良いのか考え、行動してみる。
自分が影響を与えることができる輪の範囲内で、想像力を使って、周りを思いやることが、ダイバーシティを考えること第一歩なのではないかと思います。と言うか、むしろ私たちにはそれしかできないのでしょうね。
長文になってしまいました。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。